どこにも行けないまま、5月が終わる。
どこにも行けなかったけれど、部屋は綺麗にならなかった。
どこにも行けなかったから、体重は増えた。
どこにも行けなかったけれど、それなりに生活を楽しめた。
どこにも行けなかったから、Twitterを見てしまう時間が増えた。
最近は、自分の気持ちを強い言葉で代弁してくれている(ように見える)人が支持されているように思う。
強い言葉ってどうなんだろうね、しんどくないのかな。
言っている人も、聞いている人も。
エビデンスがしっかりしていて数字としてきちんと結果が出ているものと、自分が思っているものは、まったくの別物だよね。
それをきちんと区別できていない人(発信する人も、それを受け取る人も)を見るたび、嘆きは加速する。
Twitter、見てしまうよね。
それがいいのか、悪いのか。
普段ならなかなか手に入らない通販情報、どこかに住んでる知らない誰かがつくったおいしそうなごはん、簡単につくれるおやつレシピ、あつ森の楽しみ方、作品の感想、その日起こった些細だけれどうれしかった出来事、周りの人たちへの愛、いいよね。
政治への批判、かなしいニュース、日本の現状、経済の見通し、将来への不安、抱えているコンプレックス、異なる思想の交錯…悪いことではない、よね。
情報量が多くて、移り変わりが目まぐるしくて、たまに疲れてしまうけれど、むしろ自分にとって必要なこと。
しんどくなったら、距離を取って一呼吸おいて心のザワザワがなくなるまで待つ。
じゃあ、胡散臭い自己啓発、いかがわしいお誘い、思想と言葉の強い人間による偏っているとも捉えられる演説、誰かの何かを搾取しようとする小狡さは?
目障りだとは思うけれど、きっとわたしには近寄ってこない。
まあ、向こうの方が近寄りたくもないだろう。
でも、誹謗中傷は?
そんなの、ダメに決まっているでしょう。
画面の向こう側には自分と同じように生きていて、心があって、誰かにとっての大切な人っていうことが、どうしてわからないんだろうね。
誹謗中傷する人に対しての誹謗中傷も、誹謗中傷する人に対して誹謗中傷する人に対する誹謗中傷も、誹謗中傷する人たちなんてそういう生き物なんだからいくら嗜めても響かないよって諦めも、誹謗中傷してしまう社会構造に対する嘆きも、誹謗中傷によって起こった出来事で取る笑いも、誹謗中傷する人たちなんて相手にするなって強さも、誹謗中傷されて嫌なら辞めちまえって極論も、誹謗中傷をしたことがない人なんていないという決めつけも、わたしは全部嫌だ。
議論は必要、違う意見があって当たり前。そうなんだけれど、ね。
子供の頃、たまに母親に言われた「ダメなものはダメ」という言葉を思い出す。
ダメなものはダメ。
ほんとうにそれなんだよ。
「ダメなものはダメ」を細かく分解すると、”ダメ”な理由はちゃんとある。
それをいちいち説明しないとダメか?
自分で考えてもわからないのか?
ダメなものはダメ、でしょうよ。